読書ろぐ

読書メーターの過去ログデータベース

社会科学における人間

【084】社会科学における人間

 

 

【15/09/27】1982年以来何度も読んできていて、とうにマスターしていたつもりでいたけれど、かなり難儀した。特に、マルクスの章。また、全体を通じてこんなことまで書かれていたのかと感動的ですらあった(特に「19「世界宗教の経済倫理」における視野の拡大」以降)。懐かしい恩師のお小言を聞いたかのような読了感。まだまだ読み込んでいきたいと思わされた。

 

         *       *       *

 

【22/08/25】22/05/24のnoteから。

今回は、ぼくの読書経験上最も決定的だった1冊について書いてみたいと思います。

1982年、学部の1年生の時に先輩から押しつけられた、岩波新書の『社会科学における人間』(大塚久雄著)です。大塚には、同じ岩波新書の青版に『社会科学の方法』という「類書」があります。どちらか一方を選べばよいと思いますが、双方ともに、いささか古い感じは否めないかと思います。しかしそれは、これらの著作の価値を損ねるものではないと考えます。

この『社会科学における人間』では、カール・マルクスの経済学と、マックス・ウェーバーの経済史・宗教社会学において、どのような「人間」(のモデル)が理論構築の前提とされてきたのかを解読しようとしたものです。そのイントロダクションとして、ロビンソン・クルーソー物語における主人公の無人島での行動が、どのようなものであったのかに言及しています。

これら全てについてにわたって記述するのは力不足なので、ウェーバーがどのようなアプローチを試みていたかについて、「触り」の部分のみ、書いてみようと思います。最もぼくが興味を引かれたのは、主著の一つである『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でのアプローチでした。つまり、プロテスタントの一派であるカルヴァンの教義を信奉していた人々の職業についての考え方と行動とが、近代資本主義を駆動した、労働に関する規範となっていたことを記述したものです。乱暴な言い方を許していただければ、神の御業を称えることの「結果」が蓄財を促し、やがて宗教的な動機抜きでも人々を駆り立てる「鉄の檻」としての近代資本主義を産み落としたとされています。その行動様式の萌芽を、エートスと言っていました。

先述の『新しい科学論』でも、それまでの「常識的」とされていた科学観が、「キリスト教の蒙昧」から理性が解放されていって科学が立ち現れたとされていたと思います。この『社会科学における人間』でも、いわば相似形として、キリスト教信仰からの解放ではなくて、むしろ信仰心の発露としての経済的な行動様式が生まれていったことが解説されていて、とても興味深く読んだ次第です。

これらを、敢えて文明の牽引力・駆動力としての信仰・宗教として読み替えた場合、来るべき文明をリードしていく文明の「種」は、どこに求めていくのがいいのかという問題意識が導かれるかと思います。ぼくはそれを卒論で取り上げてみたのですが、「壮大かつロマンチック」と、感心というよりは指導教官に呆れられたのが、昨日のことのように思い起こされます。

この著に触れたことで、それ以降の読書傾向が、決定づけられたことはまちがいないと思われます。卒論を書いたあとも、幾度となく「ぶつかり稽古」でもするかのように、自分の「成長度合い」を確認する意味で紐解いた1冊でした。